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観客は世にも珍しいヒト、という生き物を見るために集まってくる。場内には柵に覆われた場所 にヘッドマウントディスプレイをかけているヒト一人と、会場全体をガイドするヒト二人がいる。 ヒトの身体的な説明から始まり、動くヒト、他人を真似するヒト、コミュニケーションを取り合 うヒト、などをガイドの案内で次々に紹介していくにつれ、ヒトがヒトを見物する境界線が崩れ 始める。The audience has assembled to witness the strangest animal, the Human Being. O ne Human Being is in a cage, strapped into a VR headset. Two more Human Beings are gu ides, leading the audience through the exhibition. The performance begins with an explan ation of the human body, and then the guides introduce one aspect of humanity after ano ther: there are humans in motion, humans mimicking other humans, and humans that com municate. As this takes place, the border breaks down between the human observers and the humans being observed.

出演:福原冠(範宙遊泳)、増田美佳、Yamuna Bambi Valenta、竹田靖/原作:マヌエラ・インファンテ/演出:篠田千明/ドラマトゥル ク・翻訳:岸本佳子/アートディレクター:たかくらかずき(範宙遊泳)/照明:筆谷亮也/音響:西川文章・吉田涼/ VR ディレクター: ゴッドスコーピオン(Psychic VR Lab)/技術監督:遠藤豊 (Luftzug) /技術補佐:佐々木文美/公式レビュアー:黒嵜想/制作:芝田江梨 /製作:KYOTO EXPERIMENT /主催・企画:篠田千明/助成:公益財団法人セゾン文化財団、アーツカウンシル東京 ( 公益財団法人東京都 歴史文化財団 ) /協力:BUoY 北千住アートセンター、範宙遊泳、プリッシマ

 

篠田千明 (Chiharu Shinoda) 演出家、作家。1982 年東京生まれ。2004 年に多摩美術大学の同級生と快快を立ち上げ、2012 年に脱退するまで、中心メンバ ーとして主に演出、脚本、企画を手がける。以後、バンコクを拠点としソロ活動を続ける。近年は「四つの機劇」「非劇」と、劇の成り立ちそのものを問いな がら作品を制作し、最新作はチリの作家の戯曲を元にした「ZOO」。2016、17 年度セゾン文化財団ジュニ ア・フェロー。Theater director, writer and eve nt organizer. Born in Tokyo in 1982. Shinoda started her career with FAIFAI, which was founded in 2004 by students of the same faculty of Tama Art University. She took a major role in the group, directing, scriptwriting, and organizing events. The company received invitations from both Jap anese and overseas festivals and theaters. Since 2012, she has been based in Bangkok as an independent artist. She is a Saison Foundation Junior Fellow for the 2016-17 fiscal year.

 

晒し者、見世物、そして動物

黒嵜想

篠田千明による『ZOO』は、マヌエラ・インファンテによって作劇された同名の作品(以後『動物園』とする)を上演したものだ。しかし実際の内実としては、両作はほぼ別物と言って良いだろう。

 マヌエラによる『動物園』は、絶滅したとされる原住民を発見した科学者が、彼らを舞台上に連れ、この大発見についてTEDよろしく観客にレクチャーをするものだ。筋書きを進めるなかで、この「レクチャー」は様々なハプニングに見舞われることになる。言語をもつ者/もたぬ者、見る者/見られる者、といった、両者の関係に潜在する非対称性はその度に暴露され、転倒を来す。

 これらの二分法がもたらす非対称性とその転倒は、科学者が原住民に向ける非対称の眼差し、「人間/動物」の二分法と重ねられる。ゆえに、その関係も転倒しうるものとなる。マヌエラによる『動物園』は、「人間」という語が含意する、視線の対称性をこそ疑う。「動物」は、われわれ人類の外にあるのではなく、「人間」の内にすでに見出されている。これが同作の主題であると言ってよいだろう。

 しかし、篠田の『ZOO』には、そのような言語をもつ者/もたぬ者の二分を、舞台上に見出すことができない。何故ならば、それぞれの役者を「動物」としてレクチャーしている存在は「役者」としては存在せず、音声アナウンスとして場内を漂っているからだ。後ほど詳述するが、マヌエラ『動物園』と篠田『ZOO』との物語上の差異は、その大胆な会場構成に端を発している。さて篠田は、「人間」の動態展示たる「動物園」を、いかに演出したのか。

 

 『ZOO』にはそもそも、中心的な舞台が存在しない。背がそれほど高くない「島」のような足場が二つと、塀のような「囲い」が一つ。役者はそれぞれに立っている。場内アナウンスが読み上げる文章や、役者の一人が装着したヘッドマウントディスプレイ(以後HMDとする)に映された視界などが表示されたモニターが点在している。つまり、全てを一望できるような視座は、あらかじめ奪われている。その上、観客は上演中、案内された「順路」の内ならば上演中であっても自由に移動し、この演劇を撮影することが許可されている。

 並置された、二つのミニマムな舞台にそれぞれ女性が一人ずつ。塀に囲まれた中に、HMDとヘッドホンを装着した、視聴覚を奪われた男性が一人。あらかじめ配られた場内マップにも「順路」が説明されているように、観客はこれら三匹の「動物」を、場内を自由に周遊し鑑賞することが暗に勧められている。つまり、『ZOO』は演劇というよりは、文字通りの動物園、つまりは「動態展示」として上演されているのだ。

 本作を最も特徴づけ、なおかつ独特の彩りを与えているのは、この「動態展示」にあたって利用された、いわゆるHMDやモニター群などといった、最前線の視覚メディアの導入なのだろう。しかし筆者は、原作との比較を試みるという点で、本作がこの会場構成によって推奨した「観客の遊動」に注視してみたい。なぜそれは要請されたのだろう。

 

 マヌエラ『動物園』の舞台に立つ科学者たちは、プレゼンテーションの内容からも明らかなように、文化人類学者だ。言語を持つものが、言語を持たぬ人間としての「動物」を、言葉によって開陳する。科学者が言語を習得した未開部族であり、未開部族と思われた人物が実はプレゼンターであったという転倒を見せることで本作は終幕する。

 調査者と対象者の切断を疑い、フィールドワークという調査方法に潜む相互干渉を見るという、文化人類学においては伝統的な問題は、しかしここではモチーフに過ぎない。その狙いは、「見る/見られる」の関係の顕在化にある。観客は透明な存在ではなく、「見る」ことによって未開部族にストレスを与えている。だからこそハプニングが起きる。しかし「見られる」彼らは常に「動物」である訳ではない。終盤に明らかになる原住民の「擬態」は、彼らもまた模倣を達成した「見る」主体であったことをも暴露する。未開部族(とされていた彼ら)もまた、科学者、そして観客に演技していた「人間」であったのだ。

 『動物園』の主題は、「見る/見られる」の二つの暴力を露わにし、転倒することにある。しかし、ここで重要なのは、「見る」観客の防衛線が、役者からの注視を阻む「固定された客席」であり、「見られる」役者の防衛線が、観察の事実を隠蔽する「演技」であることだ。客席に直に語りかけるレクチャーの形式でありつつ、原住民を擬態する「演技」が科学者のそれにスイッチすることで物語全体を転倒させる仕掛けは、逆説的に、その権力闘争の条件をあぶり出している。

 「見る/見られる」の反転による、人間と動物の交代。

 『動物園』はその条件として、客席と演技を要する。

 さて『ZOO』には、そのどちらもが、ない。

 

 まず、本作には「固定された客席」が奪われている。先に述べた通り、分散された舞台とディスプレイ、そして周遊が許されている「順路」がある中で、観客は各々の興味のまま不規則に遊動することになる。あるいは、突然の場内アナウンスによって、三者が同時多発的に起こすパフォーマンスに観客たちは参加を求められる。観客を特定の位置に固め、スポットライトの外になりを潜めることで、役者からの視線を二重に撹乱する「固定された客席」は、そこにはない。そのような環境において観客は「見る」者でありながら同時に、唐突に点灯するスポットライトに照らされ、自分もまた「見られる」立場に置かれうる中で観覧を試みることになる。

 次に「演技」についてだが、これも本作においては奪われている。HMDとヘッドホンで視聴覚を奪われた男は、私たちとは別なる視界に現れた目標物を追い、塀にぶつかるたびに足元を崩す。場内アナウンスは、観客が遊動するなかに用意されたカゴに入るまでボールを蹴る、餌と称してゼリーを観客から演者に与えさせるなど、役者の主体的な「演技」の余地をどこまでも奪うような指示を、演者に、観客に下している。「演技」は個々の状況が演繹させる行為となる。

 視線と行為の交錯。『動物園』から『ZOO』への変更点である「観客の遊動」化は、先のような「見る/見られる」の

非対称な二項の関係そのものを会場構成によって脱臼させている。むしろ篠田による『ZOO』は、この国の演劇においては、「固定された客席」と「演技」との二項対立がそもそも前提にできないことを演出しているかのようだ。そして本作の本質的な試みとは、「見る/見られる」の関係を「固定された客席/演技」とは別の場に探すことで、別なる「人間/動物」関係の生成を見出そうとしている点にある。

 

 本作に登場する三人の役者のうち、最もそれを象徴しているのはHMDを装着させられた、塀の中の男だろう。「観客の遊動」が前提となっている状況下で、「見る/見られる」の非対称性を堅持できているのは彼だけだ。彼は私たちとは別なる視界で生きている。そしてHMDという視界で覆われた彼の行為が演劇に参与させられるには、新たな防衛戦が必要であった。

 まず、観客との接触を避けるために「固定された客席」の代わりに、彼には自身を囲う塀が用意された。次に、彼の行為が何に向けられた「演技」であるかを見せなければならない。会場には彼の視界をモニタリングするディスプレイが常設されている。すれ違う「見る」に没入するための塀と、視界が覆われたことで一方的に「見られる」こととなった奇行。それが『ZOO』の見出した「見る/見られる」の新たな境界面だ。

 「いま・ここ」にないものを言語と身体表象で現前させるものが「演技」であるのなら、別なる「いま・ここ」の視界であるHMDに没入した彼の行為は、果たしてこれに含まれるのだろうか。身体においては「奇行」として晒され、ディスプレイに映された視界は彼の「意図」を晒している。ここにはマヌエラ『動物園』に見られたような、抵抗としての「演技」の萌芽はないように見える。

 

 終盤、彼のもとに、猿の能面をつけた狂言回しが現れる。彼にHMDを外されることで男は、初めて観客と目があう。男は動揺のまま順路中心地に移動し、そこで演劇は初めて注視されるような「舞台」を持つ(照明もそこに絞られる)。動物のような鳴き声を獲得したのち、半裸だった男は、私服に着替え、観客たちと同じように芝に座することで、本作は終幕する。

 狂言回しの登場によって、会場の「順路」に敷かれた人工芝生が「動物園」のディテールのみを示すものではなかったことがわかる。本作は、いわゆる「見世物」にルールを見出す前衛演劇であったのだ。しかし「見世物」とは何か、という演劇史を巡る議論は本稿の興味ではない。ここで重要なのは、かつて歌舞伎や狂言が河原者や傾奇者といった地位の低いものによって担われていたこと、そして猿の能面を扱うことからも明らかなように、「見世物」が動物の仮面を用いて「嗤い(わらい)」を誘うものであったことだ。

 演劇=人間の動態展示=動物園が「見世物」に重ねられたように、ここでは、HMDもまた、「能面」の似姿として扱われていることに注目する必要がある。つまり、顔を隠蔽する「仮面」が、「別なる視界への没入」とイコールで結ばれた上で、嗤われているのだ。ここに篠田『ZOO』の最も危険な転倒が潜んでいる。

 

 今一度、本作の上演状況を思いおこそう。

 点在するモニター群、周遊を許された観客、そして撮影の許可。筆者の観劇した回においても、そして筆者自身も、上演中は特定のモニターを凝視し、シャッターチャンスを探して、その都度アクシデントや奇行を求めて移動しては、手元のスマートフォンのカメラアプリを起動した。つまり、本作においてはすべての舞台、モニターを俯瞰するような包括的な視座が与えられていないが故に、「観劇」においては特定のポイントにおける、ときには手元のカメラを通した断片的な視界におかれることになる。つまり、演者と観客の誰もが、別なる視界に棲み分けられ、没入している。『動物園』には、そもそも「人間」がいないのだ。

 それだけではない。先述したように、本作においては、別なる視界への没入を誘うHMDが「仮面」と見立てられている。クロード・レヴィ=ストロースの紹介者としても知られる文化人類学者・川田順造は、文字を持たぬアフリカの部族であるモシ族について記した『聲』において、能の表現をも分析している。川田によれば、近世以前の伝統芸能においては、単子のペルソナを最初に想定し、その交錯や変換が起っていると考えるより、未分化の人称的世界に、元来の意味でのペルソナである面によって、「かりそめの切れ目」が与えられて物語が進行しているように捉えることができるという。※1

 川田は本書において、別の箇所で人格あるいは人称を意味する「ペルソナ person」が古代エトルスク語の「仮面phersu」に語源をもつという説に触れている。つまり川田の分析を本作の示唆を踏まえて補足するならば、次のように

述べることができるだろう。「動物」の群れ(未分化の人称的世界)に、仮面(元来の意味でのペルソナ)が与えられることで、それぞれの視界が棲み分けられ(かりそめの切れ目が与えられ)、私たちはそこに「人間」をその都度見いだすことができる。

 

 マヌエラによる『動物園』は、「人間/動物」の転倒を描きつつも、両者の非対称な関係は保存し続けた。しかし篠田による『ZOO』は「/」そのものの在り処を問うている。いうまでもなく私たちは動物として、それぞれの欲望のままに、個々の視界に没入して生きている。しかし、その没入自体の所作が可視化されうる界面があるのなら、それが非対称の「仮面」足りうるのなら、「人格」はそこに見出される余地がある。

 しかし、であるならば『ZOO』が提示する人間像は、もはや勝ち取られるべき超越者の位置を意味しない。では、動物園は何によって運営されているのか。

(了)

※1 川田順造、文庫版『聲』、筑摩書房、1998年、246頁

(2016年11月に京都で観劇)